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時期が来たので書道のあれこれ語ります1

先日、「変な人ですが、危害はないので・・・」と紹介された、ナゾの書道家 つきおか かがり です(笑)

その紹介こそ・・・ナゾ過ぎます(笑)

 
「修行が好き」と言ったから・・・のようです♪たぶん(笑)


  
さて、

これまでも、「書道家になったキッカケ」をたびたび聞かれることがあります。

 
わたくしが書に出会ったのは、6歳の時。

特に言いやすかった母にせがんで、書道教室に通わせてもらえたことが始まりでした。

家族の誰がしているというワケでもなく、誰に強要されたワケでもなく、降って湧いたように「書道がしたい」と。

 
もはや・・・衝動。

 
それから書道教室に通い、ただの一度も嫌いになることはなかったのです。


やめたい!
もうつまらない!
今日は行きたくない!

 
そんな思いも湧くことはなく、

 
かと言って、

 
親や先生に褒められたい!
みんなより秀でたい!
将来は先生になりたい!

 
そんな想いさえ湧くことはなかった。(向上心はあり)

 
それもそのはず、
母に「やりたい」と、お願いした理由はなかったのだ。


それでいて・・・

教室、先生、文字、様々な面を冷静に・・・見方によっては、冷めてみていた。

賞や飛び級なども嬉しさゼロではないが、「やめさせない為の制度」だと知っていた(笑)

ただ・・・
 
わたくしにとってその空間は・・・

「自分の宇宙」と交信できるトコロ。


墨の香りが好き。

夢中から「無」に入る、感覚の至福。

白い紙に感じる、緊張という恍惚。

 
紙は鏡であり、自己との対話。


生きているのか死んでいるのかさえもわからない、魂との一体感はなにものにも変えようがなかった。

言葉にするとそういった理由があるけれども、通常はただひたすら淡々としていた。

 
ある意味、書道でなくても良かったのかもしれないし、書道でなくてはならなかったのかもしれない。

 
 
・・・ヒトは形にこだわりたがる。

感覚、直観、素、それらを頼りなく見立て、よすがをすり替えて行く。


自由でいたいと思いながら、他人の自由を許しがたく、協会、団体、ルール、制度と、枠に収まりたがる。

自分を見失い、その枠の中で自由が欲しいと泣く。


わたくしの知っている書道の素晴らしさは、おそらくそこには無い。


 
曹洞宗 大本山 永平寺の開祖、道元禅師は中国に渡ったのち、ただ一つ持ち帰ったものは、「只管打坐(しかんたざ)」だと言われている。

すなわち「坐る」こと。

悟りを開く為に、なにか目的を達成する為に・・・でなく、
 
ただ坐る。


「ただひたすら坐ること」になりきること。

そのこと自体が、心と身体が一体化した悟りだと。


修行でみる「ただ坐ること」のように、「ただ書くこと」。


 
その時、
 
自分の宇宙が静かに声を挙げる。


 
つづく・・・

 
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